沖縄研究 No2
 

 琉球文化の特殊性

 琉球の大交易時代

第二尚氏王朝の時代(1470年〜1620年)琉球は、それまで以上に海外との貿易に力を入れた。
最初の王 尚円は自分が琉球の正当な後継者であることを中国皇帝に報告し、1472年には冊封を受けた。
尚円王の功績は数多いが、その中でも第一のものは進貢貿易に力を入れたことにある。
中国への進貢をそれまでの三年に一回から一年一貢とし積極的に貿易を振興した。
この頃になると民間貿易も盛んになり数多くの物品が琉球にもたらされている。
中国以外にも シャムとの交易 李氏朝鮮との交易 島津藩との交易が盛んに行われ琉球王朝 最盛期の時期を迎えた。
同時代の中国の文献によると琉球の都 首里はまれに見る美しい都であると書かれている。
中国は国土面積に劣る今日の沖縄を大琉球 沖縄より遥かに広大な台湾を小琉球と称したのも沖縄の高度な文化水準が評価されての事であろう。
今日 沖縄文化の他に無い特徴として言われるチャンプル−文化 つまりごちゃ混ぜ文化の下地は以上のような時代背景を踏まえて成立した。
琉球は交易によって富をもたらし同時に様々な国の文化を輸入することになる。
南蛮 中国 朝鮮 日本 沖縄独自の文化が見事に融合し昇華された、それが琉球文化と言えるであろう。
以上のような沖縄の大交易時代に関する今日の共通認識に異論を挟むとすれば以下の論説が参考となる。
以下は 1998年ボーダ−インク発行 真喜志治著 「全県FTZ 感情的反対論」より抜粋する。
進貢船やときには小船で荒波を渡り、琉球人は正直で勇敢だと、彼の地で称えられた郷土の先人たちを思うと、その誇らしさは、時代を超え、同じウチナンチュ(沖縄県民)として、感動的でさえある。
しかし、この話には、取り違えてはならない大事な要素がある。    それはこの交易が、絶対的な富を沖縄にもたらしたか?と言う事である。
スペインやオランダやイギリスが世界の富を手中に収め、大航海時代を謳歌したのと比較すると如何なものか。
グロ−バルスタンダ−ドという見地から、つまりは世界史に「豊かな大交易時代」による「琉球の繁栄」を刻んだかということである。
先人の偉業にけちをつけるつもりは毛頭ない。
ただ、あたかも裕福な市民層が形成され、豊かな生活が営まれていたが如き誤解を生むような表現は慎むべきではないか。
無知と妄想は悲劇を生む。
15世紀の交易は、国王直営のものであり、その利益は王室の財政に当てられ、民衆に還元されるものではなかった。
琉球王朝の大部分の民は、質素な生活を強いられていたのである。
独自の生産物を持たない仲買貿易は、16世紀後半に至り、ポルトガルやイスパニアや日本中国のアジア進出により、その機能は衰退し、わずかに中国に対する朝貢貿易が残るのみとなったのである。
そしてその富は、1609年の島津藩の琉球侵攻以降、島津氏の搾取を受けたのである。
つまり「大交易時代」は、琉球王国の民に経済的恩恵を与えてはいなかったのである。