カメラレビュー

季刊誌 カメラレビュー(朝日ソノラマ)
第66号にすばらしい内容の記事があります。
久々に感動ものでした。
 
季刊カメラレビューはクラシックカメラ研究及びコレクターにとってバイブル的存在です。この手の本の中では最も歴史が深く権威があります。
筆者達も大学の研究者、メーカーの技術者、有名コレクターと信憑性あるものです。意外に思われるかもしれませんが情報雑誌はカメラ関係のものにかぎらず、嘘、間違いが多すぎます。“解らない事は解らない”このスタンスが大切でしょう。
想像で知った様な事を書いている情報誌があまりにも多いので一言書きました。
それではカメラレビューの記事の一部を以下に紹介します。


いまひとつの写真レンズ史
・・・・・写真レンズの開発に尽くした関西の技術者たち
神尾健三

家電とカメラ
私は1959(昭和34)年、カメラ会社から大手か電位転職した。大手家電で8mmカメラをやるから(それが後で松下電器と分かった。)来ないか、という誘いが入社の同期だった。8mmというのは8mmビデオではなく、16mmフィルムを使う8mmシネムービーである。当時、シネ8mmブームがやってきそうな予感があった。8mmはカメラメーカーだけのものではない。松下でもやるべきだと考えた人物がいた。40歳の若い技術屋出身の人事部長、樋口登(後の取締役)であった。松下の小型モーターを製造していた人事部の責任者で、モーターの応用商品として、かねがねシネムービーに熱い視線をなげていた。その上、社内に系列の「ウエスト電気」が製造するフラッシュバルブを販売していた写真用品事業部があった。この販売チャンネルで売ろうというシナリオだった。
私たちのグループで1年半ほど、撮影機と映写機の開発をやった。撮影機は電機メーカーらしく、フィリップス社のCdSを使った自動露出、エレクトリック・アイにした。映写機も作った。フィルムの端に時期膜を塗布して録音可能にした。金型を起こしプロトタイプができた。だがそこでこの計画は中止になった。最終的に松下本社が中止の判断をした。私は悔しさいっぱいの気持ちでこの中止決定を聞いたが、内心、ほっとしたのも事実である。終戦の日の日本人のような心境だった。製造業も業種によって大いに考えが違う。漁師が田を耕したり、百章が魚を売ったりすることは予想外に難しいことを実感した。
一事が万時、カメラ会社と電機メーカーは月とすっぽんくらいの差がある。カメラ会社は職人と名人芸のような設計者の世界。それに戦後一時期に集中して採用した、多士済々の技術者のかもし出す書生気質。それに加えてこの会社の持つ写真道楽的な理想主義、器用貧乏、長屋にいて俳句をひねり盆栽を育てるような文化性、そんな独特の空気が支配していた。
それに比べ松下電器は広大な敷地に新築の近代工場が立ち並び、その中で童顔の少女たちがユニフォームに白いズック靴をはき、ベルトコンベヤーに整然と並んできびきびと働く別世界があった。当時、前者にあるものは前者にはなかった。正月にははっぴを着て初荷を出し、工場ごとに守護神を祭る古い松下。
しかしその社内は切れ味のよい経理マンのソロバンでばっちりと管理され、毎月の決算会議には日頃とは打って変わって激しい言葉が飛び交う。それはアメリカ流の合理主義かと思ったが、実は提携したオランダのフィリップス社からの直輸入されたバジェットシステムであると知った。明るく、自然に新旧が裏表一体となり企業体を作り上げている不思議さ。そのソロバン勘定の中に、自然な調和を保って存在する社長の松下幸之助という人。この人は遠くにいる存在だが、その自由闊達気風が工場にも伝わってくるのである。
しかし何ヶ月か経つと、カメラにあって家電にないものが見えてくる。カメラという機械の持つ精密さは、家電にはまったくないその物足りなさ。バケツに落ちる雨漏りの音をききながら、古い社屋の一室でカメラの技術や写真談義を戦わせる自由な日々。世界のカメラの頂点に立つライカというビーナスの存在も家電世界にはなかった。カメラ会社は18世紀以降、ヨーロッパで培われたクラフトマンとマイスターによるもの作りの土壌を引きずっていた。これに対して家電メーカーはフォードの自動車工場流の、ひたすら文明の利器を能率よく作る合理的生産の場である。私はカメラから家電へ転じたカルチャーショックにしばらく戸惑い、いつも肩に力が入っていた。
私の観客席から見るカメラへの視線でこれ以後の話を進めよう。昭和30年代も半ばになると、カメラについての情報も新聞、雑誌に飛び交っていた。カメラ・ジャーナリズムが賑やかに新製品を解説し、手にとるようにその内容を伝えてくる。20世紀の前半、ドイツは緻密で合理的な機械カメラを完成させた。その頂点にライカがいることに異論を挟む人いない。1960年代に入り、日本カメラはその先の道をエレクトロニクスに見い出したのである。まず露出の自動化からこのステップが踏み出された。
もともとこの構造はアメリカやドイツで古い時代からあった。だがこれをとことん問い詰め、究め尽くしたのは日本ライカである。ちょうどマイクロ・エレクトロニクス技術が革新の時代を迎え、それをうまく使って自動露出という夢が実現していった。機械にエレクトロニクスが頭脳を与え、さらにマイコンをつかってストーリーを演じさせる。人が作ったシナリオで機械が動くのである。日本流にメカトロニクスといわれて、それが日本機械工業のお家芸にすっかりなってしまった。その走りがカメラによってひらかれたといえるだろう。
レンズ設計のOB、友人の小倉敏布のうまい表現によると、それまでのカメラは機械屋とレンズ屋の世界だった。それを陸軍と海軍にたとえれば、1960(昭和35)年以後はそれにエレクトロニクスという空軍が加わる近代戦の時代になったというのだ。どういう理由があったのか、ドイツはこの新戦力空軍で日本に遅れをとった。
1976(昭和51)念、実に画期的なカメラが表れた。電子カメラの決定版、キャノンAE-1がそれである。このカメラは常識を破る低価格で発売され、1年半で生産類型100万台を突破するという大ヒットになった。家電規模の大量生産とその手法を最初から考えたキャノンの戦略商品であった。
このカメラを見て、まず電機メーカーの技術者がたまげた。それは電気メーカーのお家芸であるはずのものが、かめらに先取りされたからだ。電子技術の魂のようなこのカメラは、それ以後のビデオやコンパクトディスク、パソコンなど小型化する家電の姿を先取りしていた。当時はまだ、家電にはカメラのような複雑精巧なメカニズムのいる製品はなく、また、カメラのように小型にする必要もなかった。家電メーカーの技術者はこのカメラから学ぶものが多かったのである。当時私はビデオディスクの開発部隊にいて、このカメラにため息をついていた。
キャノンAE-1の出現はカメラがその先で、家電製品化していく出発点でもあった。一方、家電製品はこのカメラが出た直後から小型化の時代に入った。カセットをカメラのようなセンスで小型化した製品の走りはソニーのウォークマンの企画者はカメラが好きな人物ではなかっただろうか。私もちょうどこの頃から職場の写真仲間と一緒に写真を写す道楽が芽生えた。カメラというものは写真を写す道具である、そんな当たり前のことを実は初めて実感することになった。カメラ会社にいた私の青春は、カメラという機会を作る技術やでしかなかったのである。

家電とレンズ
大手電機メーカーでは10年近く、オーディオプレーヤーの仕事をしていたが1974(昭和40)年にビデオディスクの仕事に変わった。1970年代を迎えて、オーディオ/ビデオ分野では1つの変革が進んでいた。70年代の家電業界はカラーテレビで潤うだろう。しかしその後にどんな戦略商品をもってくれるのか?当時、「ポストカラー問題」といわれたのこの課題の答えは「ビデオ・パッケージ(現在のビデオディスクやDVD映像ソフト)」で本命はビデオディスクかVTRだといわれた。
このビデオディスクとVTRとには共通した特色があった。それは木や鉄やプラスチックの箱の中に電気回路や部品だけが入ったラジオやテレビ、ステレオなどの従来の家電とは異なり、カメラのような精密な機会敬意が必要で、電子回路と組み合わされた電子機械であった店で共通していた。一方、カメラはどんどんエレクトロニクスを取り入れ、操作のオート化が進められていた。メカトロニクスということばもこの頃できた。
VTRを作るためには、家電メーカーは時計やカメラのような、小さく細密な機会を作るノウハウを手にいれなければならなくなった。これまでの家電の下請けで部品を作り、それを組み立てるだけのアッセンブリーが中心だったが、それ以後、重要な機械部品を内製するひつようが急速に高まった。そしてビデオカメラには、まさに写真レンズが付いていた。ビデオディスクは精密な電子機械だったが、加えてフィリップスが開発した光学方式とよばれるものは顕微鏡の対物レンズ並みの性能のレンズが必要だった。1970年代になって、家電はカメラと同じ土俵に立つ電子光学器械の仲間に、姿を変えていったのである。
全世界で大当たりをしたVTRは1982(昭和57)年にはテレビを追い越す巨大な市場を作り、83年の全世界生産台数は3000万台に達した。82年にはコンパクトディスク(CD)が発売された。それは期待のビデオディスクがいまいち伸びないのでその大だとして登場したが、これが予想以上に伸びた。1980年代に入った直後から、家電メーカーはCDのレンズやプリズムの光学分野に殴りこみのようなアタックを始めた。これに使う光学部品を安く大量に仕入れたいとレンズ製造業者(以下、カメラ会社やレンズ専門メーカーをレンズ屋さんと書く)に迫る。地方の素封家のようにおっとりとしたレンズ屋さんたちはぶったまげた。今までレンズに無関係だった家電軍団が光学畑で大暴れ始めたのである。
家電メーカー(以下、電気屋と書く)にとってはレンズは電子部品の一つでしかない。スペック(仕様)を示して、恐ろしく政策の難しいレンズを、驚くほど安い価格で作ってくれとぬけぬけと要求してくる。全国のレンズ屋さんは一時期、電気屋総スカンという気分だったらしい。カメラ会社も最初はCDのレンズはオーディオ・ピックアップのようなや役割で、レンズ矢の将来の柱になると期待していた。しかしCDの音にはズミクロンもニッコールも、そんなブランドによる音の差はないと分かり、レンズはレンズであっても、デジタル信号を読み取るCDのレンズは、カメラのレンズのようなアナログ的な描写の味や品位は問われない。
そのうち、電気屋がレンズを作り始めた。恐れることはなく大胆に、高度なレンズが電気屋の手で出来た。初めは「カメラ屋のレンズは人間のめし、電気屋のレンズは猫のめし」などと格好をつけていたが、電気屋のレンズが急速に市民権を得ていった。ただしカメラ屋ではコニカだけがCDレンズの大量生産に成功して、電気屋の追撃を振り切って今なお業界に君臨しているのは驚きである。ただ、そのレンズはガラス製ではなく、プラスチィックの成型によって作られたもので、往時のコニカの写真レンズ、ヘキサーを想起させるものはまったくない別物である。

家電メーカー製レンズ
松下電器は1979(昭和54)年頃からレンズ設計を習得しようと勉強を始めている。東大の小倉磐夫先生を講師に招き、レンズ設計をやり出した。この時代になると、レンズ設計も文献が出揃い、今コンピューターソフトも手に入ったから、昭和20年代のレンズ設計者の伊能忠敬的探索を繰り返しレンズを設計したわけではなかった。彼らは投射型テレビのレンズを手始めに設計したが、このレンズを樹脂製型で造ることを最初から計画していた。
投射型テレビのレンズはR,G,B用に3本必要であり、松下は最初、ミノルタからの完成品を買っていた。カメラ会社はカメラの徴焦点レンズのような仕立てのレンズを納入したが、価格がまるで合わない。家電の松下から見ればカメラ会社のレンズ製造法はまったく納得いかない。やがてこれは京都の老舗の和菓子屋にドーナツを発注するようなものだと分かった。
これは自社で作る以外の方法がない。そうでもしなければ、将来家電メーカーはレンズに首根っこを押さえられるぞという危機感もあった。テレビの大型化を控え、投射型テレビは当時注目されていた。松下はテレビ用レンズの内製化を手始めにやろうと考えた。松下は部品を作ることでは伝統があった。テレビやラジオを作る時、その部品を徹底して内製することが松下流といえる。松下幸之助は経営の神様といわれるが、物つくりの神様だった点があまり語られていない。この人のために残念なことだ。
松下がレンズの内製化に踏み切った目的はVHSで優位に立った松下のビデオの次の展開は、据置型から間もなく携帯型のビデオカメラが普及するに違いない。その時必要なレンズは、設計から製造の全てを内製化するという計画ができた。1980(昭和55)年には米国のムアー社から非球面を創製できるNCマシーンを購入した。そして投射型テレビのレンズ設計に非球面を取り入れ、その金型の表面をメッキし、マシーンで非球面を入念に研削で仕上げた。松下が最初に造った自社製投射型テレビ用レンズは4枚中2枚が樹脂製方レンズで、2面が非球面で出来ていた。
周知のように、ガラスを成型した非球面レンズを作る技術はコダックが1982(昭和57)年に実用化した。市販したディスクフィルム用カメラのレンズ、12.5mmF2.8がそれである。だが、このディスクフィルムなるものは不評で短期間で中止されてしまったが、このレンズの業界に与えたインパクトは大きかった。RCAやコダック、IBMなどのアメリカの巨人たちの技術開発力は当時、実に大きかった。日本は彼らの一挙手一投足を見つめて方向を決めた。松下がやるのは耐熱、耐湿特性に問題がある樹脂成型品ではなく、レンズはやはりガラスで行こう。研磨レンズではなく、コダックが先鞄をつけたガラス成型の非球面レンズと方向を決めた。
こんな例は日本型二番手開発方法だと外人はいうが、彼らが無造作に生み落とした未完成技術を、日本は育ての親となって完成させるのである。もっとこのへんの日本の果たしてきた役割を彼らに伝えねば自らが浮かばれない。それと同時に生みの親は自分らでなくて、あの人だとはっきり発明者に礼を尽くすのは育ての親の使命であって、それをやらないから日本は多くの場合、誤解を受けてきた。
さて、ここで認識しなければならないのは、カメラと電気の生産の違いである。ビデオやテレビはカメラに比べ数倍から1桁以上多く、大量生産方式によるコスト競争の熾烈さも家電は一段とすさまじい。だから電気の大量生産技術戦略はカメラ会社に比べ、一段と深いところから出発しなければならない。
1985(昭和60)年、ミノルタはα‐700というカメラで空前の成功を収め、月産8万台と家電型量産規模に迫る生産を行ったが、この時、ミノルタは非球面レンズを面白い方法で作っている。複合型という球面ガラスレンズの表面に紫外線硬化型の2層のプラスチック層で非球面を作る。このスキンモールドといわれた方法はフィリップスの特許だったが、それをミノルタは実用化して、いきなり数万台の大量生産を軌道に乗せたのは素晴らしい成果だった。だがこの方法は、家電の大量生産規模に敵う方式ではなかった。
結局、松下はプラスチック成型レンズと、レンズの素材開発を住田光学が協力したガラス成型レンズの両方で実用化した。前者は生産技術研究所、後者は無線研究所で互いに他を意識しながら個別に開発が進められた。松下ではこんな車内競争が繰り返されるのが、他社にない特色である。
1990(平成2)年、VHS方式のカメラ一体型ビデオ「ブレンビー」と呼ばれたカメラにガラス成型レンズが使われ、注目された。それ以後、業界の大勢はプラスチックレンズはコニカ、松下はガラスレンズを本命とする図式になり、後者は保谷ガラス、富士写真フイルムなどが参入し、激しいシェア争いをしている。
松下でガラス成型レンズの開発にあたった人たちが、すでにその成型や金型技術を雑誌に紹介している(「日経カメカニカル」1995年のNo.458など)。これを読むと、ガラス成型非球面レンズの開発に苦心した技術屋たちの姿が浮かび上がってくる。金型の製作、それもDVD、CD兼用レンズとなると、加工は一段と困難となる。非球面レンズは光軸が1本しか存在しない。これが球面レンズとの根本的な差である。ガラスを600度Cに加熱した雰囲気中で、レンズ両面の二つの光軸を厳密に合致させるには上下の金型のダイセットが高温下でガタなく動作しなければならない。そのために技術屋は苦心しただろう。
さらに非球面形状を測定評価することは実に厄介である。球面レンズはニュートリングという伝統的な評価法があって、実に容易に手際よく、球面の半径と真球度が評価できた。非球面ではそれが出来ない。成型法では個々のレンズのばらつきは出ないが、その元になる金型の測定が重要になってくる。
1980年に松下はビデオディスクで、日本ビクターが開発したVHS方式に合流した。ただし、光方式も継続して研究を進めることにした。そのグループのチーフだった沖野芳弘(現ISOM委員長)は、何とかしてそのグループの人数を温存しておきたかった。CDの信号記録機、カッティングマシーンを開発したり、フィリップ方式(俗にいうレーザーディスク)を透過法で再生したり、とにかく松下は光方式をギブアップしたのではないことを示したかったのである。
その中に入社間もない吉住恵一がいたが、彼は光ピックアップを使い、フォーカシングサーボのやり方で、3次元計測機を作ろうと提案した。これを使えば非接触で非球面レンズが測定できる。当時はまだ、非接触のものはなかった。このソフトはその後、私が入社したメイテックの増井という派遣技術者が担当した。これをさる学会で発表したら、予想以上の反響があった。吉住式はその後改良を重ね、超高精度3次元測定器「UA3P」は現在、世界基準機になっている。
私がカメラ会社に勤務していた1950年代には、非球面レンズは量産品として実現の可能性がまったくなかった。50年後のいま、それが中心になる時代がきている。そしてその幕はカメラ会社が開いたが、その後、このバトンを持って走っているのは家電会社という情景に変わっている。レンズがアナログ写真の領域から、デジタル信号機検出に役目が広がった時、非球面レンズが噴出してきた。そのコックを開いたのは家電の技術屋であった。さらにレンズは見慣れた碁石状のその形すら変化させて、非球面レンズとホログラムを一帯にしたややこしいレンズ(それがフレネルレンズか回折レンズというべきかさえ、私にはさっぱり分からないのだが)が出現している。
この小文の題名は「いまひとつの写真レンズ史」であるから、いささか私の写真レンズ史観でこの流れを振り返ってみよう。
その昔、ライカというカメラがあった。バルナックという人がそれを作った。性能がよい以上にその姿がよかった。1950年代、日本人はライカに憧れ、ライカを自分らで作りたいと思った。私の時代のそれは夢であった。1960年代に日本人はその夢を実現させた。一眼レフにエレクトロニクスを加えた日本独自の技術も生まれた。日本はライカ以上によく写るカメラを初めてベルトコンベヤーで生産し、価格もライカの半値以下で作った。月産台数はライカの10倍、日本の生産技術の完全勝利で物理的にはライカを下した。
当時、西欧のやり方に従って、日本のレンズ工場では原器をレンズに当てて、ニュートリングでチェックする伝統的な方法でレンズの大量生産をやった。ニュートリングは象徴的な手段で、これなしでは磨けなかった。非球面レンズ時代のいま、生産台数はさらに10倍。従来の写真レンズではないデジタル信号を読み出すレンズである。そして工場ではもうニュートリングの出る幕はない。DVD、CD兼用ピックアップのレンズ、デジタルカメラ用レンズなど、かつてのライカの100倍を超える規模の生産が怒涛のように行われている。ニュートン、ケプラー、ガリレオなどの名が残る古典の代名詞光学レンズが20世紀後半の10年で、突然、さま変わりしたのである。こんなことを誰が想像できただろうか。

レンズ付フィルム
1986(昭和61)年、富士フイルムから「レンズ付フィルム」という不思議なネーミングの「カメラではないカメラ」が現れた。キャラメル箱のような外観である。この「レンズ付フィルム」はフィルムの進歩によって生まれた。まずISO400、800という超高感度フィルムの出現である。この種のカラーフィルムは従来粒子が荒く、色も悪かったが、これが長足の進歩を遂げた。このためレンズの明るさはF11程度でよいことになった。一方、レンズ側も進歩し、この程度のレンズなら1枚の非球面プラスチックレンズで作れるから、値段が格段に下がった。また、F11程度のレンズなら焦点合わせの必要がない。だからオートフォーカスの必要もない。
20世紀初めから写真レンズの歴史は明るいレンズを求めて進歩してきたが、明るいレンズなればこそ、レンズの設計も製作も難しくなり、焦点深度が浅いのでオートフォーカス技術が必要になったのである。「レンズ付フィルム」に使われているような超高感度フィルムは適正露出の許容度(ラチチュード)が広く、露出を少々間違えても奇麗な写真が撮れるから、高級なシャッターも自動露出という高価な装置も必要ないのである。
逆接めくが、写真工業はこの100年、さまざまな技術が生まれ、カメラやレンズが進歩し続けてきた。それはこんな優れたフィルムがなかったからである。フィルム側の性能不足をレンズやカメラ側が懸命になってカバーしてきたのである。「レンズ付フィルム」という名の、カメラと名乗らないこのカメラには高級なメカも、エレクトロニクスも付いていない。だが結構、「写るンです」というのがそのニックネームである。長いカメラ開発の道程の果てに、ちっちゃな姿の紙箱カメラが待っていたとは、以外や以外の結末である。
私は「レンズ付きカメラ」なるものが、どの程度写るのかを体験するためにこれで撮って見た。同じ場面をライカにエルマーを付けて撮った写真と後日比較した。戦前のエルマーはレンズの内面反射(フレアー)のせいか、像がすっきり抜けない。そのため、「写るンです」は戦前のかのベレークが設計したエルマーとさほど変わらないように思えた。ライカUにエルマーを付けた重さは410gに対して、「写るンです」はちょうど100g。50年前の間に重さが1/4になったし、価格は戦前のライカはサラリーマンの初任給10ヶ月分、ざっと時価で200万円した。「写るンです」はフラッシュやフィルムまで付いて980円であるから、ざっと1/2000の価格である。これが50年前の技術の進歩によって得られた、金額表現の経済効果というものなのだ。
私は少し考えてしまった。価格と性能だけで技術の達成度を評価すると、確かにこうなる。食うこともままならない戦後の時代、日本の実直な技術屋たちがライカに傾倒し、日本のライカを作ろうと明け暮れした日々。ごく一部の金持ちしか手にすることが出来なかった高級カメラやレンズを、大衆のものにしようと努力したその役割は、いったい何だったのか。それは王候貴族や特権階級の手から芸術や文化を解放したルネサンスの精神そのもの。それは静かな革命だった。そしてライカに追いつこうとした努力は、ライカの性能だけではなく、ライカの品位と合理性、美意識までを手に入れたいという努力の目標がいつもあった。ライカは師であり、憧れだったのである。これがなくなれば、工業製品はすべてが100円ライターになってしまう。技術屋としてこれはさびしいかぎりであろう。

デジタルカメラの出現
1995(平成7)年、カシオから6万5000円という低価格で「QV−10」というデジタルカメラ(デジカメ)が出て、一般消費者向けデジカメの開幕を告げた。その年はウインドウズ95が発売された象徴的な年であり、阪神大震災が起きた年でもあった。このカメラの画素数は38万画素。当時、新聞写真のような荒い画像を見て、デジカメはまだまだだといわれた。
これ以後、デジカメの銀塩写真追激戦が始まった。フィルムの解像力を目標にして、もっぱらデジカメのフィルムにあたるCCDの高画素化を追求した。とうとう1997(平成9)年には10万画素、メガピクセルの機種が現れた。間もなく銀塩写真と同等といわれ始めたのである。この進歩はエレクトロニクス速度である。銀塩カメラ速度ではない。性能が等比級数的に向上し、価格は据え置きの世界なのである。いまやかつての業務用デジカメを上回る300万、500万画素は当たり前だ。
今市場で騒がれているのは、デジカメが宿願の、銀塩フィルムを抜くのはいつかという議論らしい。それも画素数だけで性能を競う競技会である。答えは決まっている。銀塩は抜かれるに決まっている。それが私の答えである。なぜ?それはデジカメの進歩がエレクトロニクス速度であるからだ。デジタル速度といったほうがピンとくるかもしれない。それはこの10年のパソコンの発展を見れば自ずと理解されよう。この分野、半導体の高密度化、高速度化技術はサンニ、ロクヨン、イチニッパ、ニゴロと倍々で進行し、4年で10倍になる分野である。画素数というカタログデータ競争では、従来の銀塩フィルムを追い抜かないはずはない。
近年、銀塩フィルムの開発の進歩も実に目覚しいものだった。フィルム感度と微粒子化は両立しないのに、それを達成し、しかもラチチュードの広いフィルムを作った。日本のフィルム技術は世界に冠たるものだ。しかし、銀塩の技術というものは時間をかけてゆっくり、着実に熟成されるもので、やはりアナログのテンポである。開発目的を単純に一点に絞り、どっと津波のように進行するデジタル型ではない。
話を画素数競争に戻そう。この競争自体がデジタル的単純さで、画素数の一点に絞られていることに改めて疑問を持つ必要があるだろう。プレッソンやキャパの感動的な写真はカラーでなく、情報量の少ないモノクロームで撮られているし、手ぶれしているものも多い。手ぶれし解像度が落ちているからこそ迫力が伝わる写真もあるのだ。銀塩用のソフトフォーカスレンズは古くからポートレート写真には欠かせないものだが、これはわざわざ解像度(画素数)を下げて設計したレンズである。
解像度は重要なレンズの基本性能だが、作画上じゃまになることすらあるのだ。往年の写真作家はレンズに息を吹きかけたり、レンズ表面にツバキをつけて、わざわざ解像度を落として撮影することもあった。
目標を「画素」のように単純にしてしまうのが、実はデジタルの身上なのである。デジカメは最初から情報機器として生まれ、今後も従来の銀塩カメラとは異なる路線を歩むのだろう。それがデジカメの定めであり、同時に、デジカメが生まれたことによって、アナログカメラがたどる定めでもある。両者は今は混同視されているが、互いに似て非なる存在で、カメラはカメラ、デジカメは家電である。
 私がそのデジカメで初めて写したのは今年の正月。家にやってきた来訪者を写した。それをスライドショーなる方法でテレビ画面に出して見ていくと、これは面白い。漫画のコマを見るように他愛なく、日常の光景が収められてこれを順操りに見たが、こういう写真の見方が意外に楽しい。私にとっては新しい写真の見方だと思った。
次に、これも当たり前のことであるが、デジカメは結果がすぐ確認できる。フィルム現像も今は短時間で出来上がるが、それでも業者に頼まねばならない。ましてや私のように数十年来リバーサルフィルムを愛用しているものは、即時結果が分かるということは脅威である。だが、リバーサル派にも密かな言い分があって、現像に2、3日かかるというのが一つの魅力である。現像所に焦らされているのだ。自分の作品の出来栄えをいろいろと想像しながら結果を期待する。これは夢で胸ふくらむ休止の時間である。デジカメの即時応答性は能率的で快いが、夢見る暇がない。とはいえ、仕事の道具としてデジカメを使う人にはこのメリットは大きいだろう。
私には日刊新聞の写真記者の知人がいて、この人の話ではもうプロの世界ではデジカメ万能だそうだ。それは一にかかって、デジカメの道具としての便利さからである。取材に出る時は、銀塩時代は写真記者は20kgの写真機材を携行した。電源のない僻地に熊の写真を撮りに行くような場合は発電機が加わるので、何と50kgにもなる。デジカメ時代になり、カメラマンは重労働から解放され、文句なくデジカメ様々だという。もう職業病の腰痛からも解放された。かつて家電が日本の主婦を家事の重労働から解放したような話ではある。しかし、取材能率が上がった半面、一日2ヶ所と取材が増えた。ついでに手のあいた時間に記事も書けと言われ出したから、デジカメもありがた半々という現状らしい。
次にデジカメは実によく写る。失敗なく写る。それは写った画面がパンフォーカス(ピントが深い)であるからだ。つまり手前から奥の奥までピントが合っている。この世界は分かりすぎる世界である。私は人を写す時、瞳にピントを合わせると後ろ髪はぼやけて波打つというアナログの世界の美意識に馴染んできた。パンフォーカスの景観は、私にとっては近くて遠い虚の世界と感じる。
 
銀塩カメラとデジカメ
銀塩カメラとデジカメの根本的な違いは、デジカメにはボケがないということだ。それはレンズの焦点距離が短いことに由来している。CCDの面積が小さいからである。では、ボケとは何か?ボケとはレンズの欠陥ではなく、レンズが人の視覚と類似性を持っている部分である。人は角膜の黄斑部に高い解像度があり、その器官を使って細かいものを識別する。その時、黄斑以外の網膜に写っている周囲の映像はボケて見える。そのボケた映像は確認することが出来ない。ボケた部分を注視するとそこにピントが合ってしまうからだ。
人は長い写真レンズ開発の歴史の中で、レンズのピントの合う戦前のボケを美しく結ばせるという高級で優雅な研究を進めてきた。レンズの「ボケ味」という言葉までがあるこの分野の技術屋は、彼らのイマジネーションを駆使して、人間の感性のありかを表現しようとする。確かに、レンズが結ぶ像には美しいボケと汚いボケがあることが分かる。だから撮影時にボケの少ないデジカメの映像にはボケという一つの美学が、現在のところ欠落している。
銀塩フィルムとデジカメでは写し手のカメラに向かう態度が違うのだ。銀塩フィルムの愛好者たちは、一眼レフを持って撮影会にやって来る。老若男女、善男善女たちは皆、重いリュックを担いでいる。三脚を構え、2台のカメラ(1台は故障に備えた予備)を首からぶら下げて、早朝起きだし、朝露の消えない間に被写体と向き合う。それは求道者のようだ。一眼レフのファインダーを覗く目は狩人の目である。
獲物はもとより、あれこれ獲物周辺の作画も考えている。余計なものが写っていないか?フレーミングをどうしようか?そして常にボケのことにも思いを致している。このレンズをこんなふうに絞って写すと、背後はこんなふうにボケると想像しているのだ。使っているフィルムの発色の具合も頭の中で計算している。これに比し、デジカメの液晶画面を見る目はかなり平凡である。被写体を眺めて、あまねく記録するというスタンスだ。事実、デジカメ用語でいえば撮影はレコーディングと称している。
最後はデジカメならではの威力。私はレンズを反対に向けて、液晶面の自分の顔を見ながら写した自写像をワシントンにいる姪にメールした。期待通り姪はクリスマスツリーが写っている自分の写真を送り返してきた。その間わずか数時間だったが、ビジネス的にやれば1分で出来る技である。やっぱりデジカメはすごい!
だが、アナログ時代に育った人間の古い感覚で、デジカメが変えた地球の距離感について付言すると、デジカメは「故郷は遠くにありて思うもの」という、人間のイマジネーションを鈍化させ、「便りのないのはよい便り」という、祈りのような人への信頼感を薄れさせてゆくのではないかと感じる。
私はデジカメ試用の結果、予想以上にデジカメを理解した。どう理解したかといえば、デジカメは従来の銀塩カメラとは異なる道具であるという理解である。だからデジカメという道具の効用を、すべて否定するのは愚か者である。だが、道具が人間の物理量としての能力を超えたとしても、人間の感性を手にすることだけは起こりそうもない。この両者を区別できない人間も愚か者であろう。
デジカメはライフル銃のような強力な武器である。これを持って戦う報道写真家が、今後地球の果てから凄い映像を送ってくるだろう。一般消費者は、フィルムに取って代わる何度でも消すことの出来る無料のデジカメ映像を、快く享受するだろう。ただほど安いものはない。だが、ただほど目的と価値を失わせるものもない。無料のデジカメ映像は、あだ写っている映像に過ぎない。どんな写真をどんなつもりで撮っているのかという、写し手の気持ちが欠落している。
30年ほど以前に8mmシネムービーがあった。シングル8、スーパー8があって、世の父親は競ってわが子の動く姿を記録した。「私にも写せます」と、いま大臣の扇千景さんがコマーシャルでおっしゃった時代である。その前は16mmシネフィルムの片側を使って往復させ、その後半分に切って映写するダブルという時代もあった。いずれもフィルムは3000円もしたが、たった3分でおしまい。1分1000円、1秒17円もしたのだ。だから写す前から周到にコンテを考え、口の中で「イキナクロベイミコシノマツ・・・・」と、呪文のような歌の一説を唱えながら撮影した。1カット、1カットが金のかかる真剣勝負だった。それはアマチュアが体験するプロ感覚の映画制作で、シネムービーの動いている間は芸術が生まれる時間であると感じた。「オレも高い金を使い、決定的場面を追う芸術家だ!」と錯覚したその面白さ。
1980年代になると8mmは急衰退した。変わってビデオが出現したがビデオは映画制作感覚を楽しむ人々からはすぐには受け入れられなかった。ビデオテープは消してまた記録できるし、その上、直後に再生でき、万時安直で時間当たりの価格はひどく安かった。安いのは大歓迎であるが、映画を愛する誇り高い心情のアマチュアにとって、ビデオは抑制が利かない、便利だが万事安易な道具と映る。それが気に入らなかったのだ。ビデオが登場し始めた頃、職場の部下の結婚式に参列すると、新郎の友人がビデオを終始回している。出来たビデオをわざわざ家に持ってきて、その録画を最初から最後まで見せられたアホらしさが、今でも忘れられない。ビデオというものの正体をその時知った感じだった。
いま、銀塩フィルムで育ったわれわれ世代のアマチュア写真家たちがデジカメを見る目はちょっとこれと似ている。やがてデジカメは銀塩を駆逐し、映像記録世界を席巻していくだろう。デジカメは絶え間なく小型化し、高性能化して止まるところを知らない。そして凄い勢いでその性能は向上し続けるに違いない。それにフィルム代はいらないし、地球の裏まですぐに映像が届くとなると、もう良いことずくめである。
さらにDVD-RAMや大容量固体メモリー、その先には原子レベルのメモリーが実用化されると、まさに撮り放題の写真がこれからの生活周辺に溢れるだろう。日本はおろか、世界各地から映像が押し寄せる日々が確実にやってくる。それはうれしいような話だが、面白くもおかしくもない、白けた花盛りの未来風景でもある。
私は一つの他愛ない未来のデジカメを想像している。ペンダント型の小型のデジカメ、それも超高密度記録媒体が内蔵されているので、首に下げておけばその人の眼の前に展開される情景のすべてが動画として、リアルタイムで記録される。その人が一生かけて見てきたものが、すべて記録されるのである。
これが終局のデジカメの姿であろう。だが、この映像を一体誰が見るのだろう。それを見るためにはもう一つの人生がいる。人間は長ったらしく退屈な人生の舞台の、あまり興味のない映像の連続の中にいながらも、なおこれぞと思う瞬間を発見しようと目を凝らしている。そしてこの一瞬に出会う感動を、1コマの映像として永遠に残したいと感じる。この風のような一瞬をブレッソンは決定的瞬間と称したのではないか。時の流れの中から、人がもぎ取ってくる密度の高い一瞬が決定的瞬間なのではないか。それ以外はすっかり忘れてしまえばよいのである。
デジカメの映像は消せるという特徴がある。これが銀塩フィルムに比べて際立った最大の特徴であろう。この決定的瞬間にデジカメ自身が照準を合わせ、その瞬間以外の映像をことごとく消して見せるというのなら、デジカメは拍手喝采である。デジカメが写し手の心を学習して、その役割を果たす日が果たしてやってくるのであろうか。

故小倉磐夫先生のサジェッション
このシリーズを終了するに当たって、いま一度、小倉先生のことを書きたい。第4回で書いたようにこの小文は小倉先生の問いかけに答える形で執筆を始めた。当初は2、3回くらいと思っていたがこんなに長くなってしまった。その原因は小倉先生から触発されたからであった。ある時、小倉先生から電話をいただいた。用件は「いま、『アサヒカメラ』で『写進化論』を書いている。ミノルタでレンズのコーティングの仕事をしていた私から聞きたいことがある」というものだった。
私は「大阪工業試験所は大正時代から光学ガラスの溶解の先駆的な研究機関で、コーティングについても海軍の要請で戦争末期には、実用に供せられるものができていた」ことなどを話した。「ああ、そうでしたか。でも、関西の方はあまり情報を発信なさらないですね。神尾さん、ぜひいろいろわれわれの知らない歴史を書いてくださいよ」といわれた。
これが私の聞いた小倉先生の最後の声だった。私はこの執筆の間、かなり熱心に人に会い、資料を読んだ。20世紀後半の日本のカメラやレンズ技術と、それを築いた技術者たちを乗せて、超特急ひかり号は21世紀を驀進してゆくのである。

2003,2,7
日経産業新聞

ライカ太鼓判のレンズ

山形県天童市。昨年十月末、温泉街にほど近い松下電器産業のAVCデバイスビジネスユニット山形工場を訪れた人物がいた。世界中に熱烈なファンを持つ独ライカカメラ社のハンスピーターコーン会長だ。
同工場で製造された「ライカ」の刻印が入ったレンズユニットの品質を検証して、コーン会長は「生産量が増えてもこの技術水準なら問題ない。頑張ってください」と改めて太鼓判を押した。
松下のデジタルカメラやビデオカメラに搭載するライカブランドのレンズは、色再現性や表面の特殊コーティングなどきめ細かにライカの技術水準を守る契約を交わしている。
本家ライカと違う点はただ一つ。ドイツ職人が手作業で一日に四〜五枚のレンズしか作らないが、松下の山形工場では自動化ラインが日産数万個を作る。松下が作るデジカメは小売価格が五万〜六万円前後が中心。高い品質を維持しながら低コスト生産が不可欠だ。
高いハードルには「一九八六年にCD用光ピックアップレンズ製造開始以来ずっと培ってきた自動化技術をすべてつぎ込んで挑んだ」(山川啓一工場長)。
ライカとの提携は二〇〇〇年八月にビデオカメラで開始、二〇〇一年七月にはデジカメにも範囲を広げた。この二年間で松下は自動化装置を独自に考案し、生産コストを以前の半分に減らした。
こすと削減に大きく貢献したのが、非球面レンズで最も難しいとされるレンズ中心部の光軸を自動で検知、制御して組み立てる装置だ。レンズ原料となるガラス硝材の固体を熱で半分溶かし、金型で圧縮して一発成型する。その際光軸を0.01マイクロメートル以内の範囲で中心に合わせる検査を同時並行で進める。
高強度、高耐熱性の金型を作る作業も自動化し、「傾斜角四十五度まで自動で研磨する装置も考案した」と山川工場長は胸を張る。複数のレンズを筒状に組み合わせる際も、接着剤などの乾燥による縮みを事前に織り込み、0.5マイクロメートル以内の誤差にとどめて自動製造ができるようにした。
ガラス硝材の状態から表面コーティングを終えて出荷するまで、現在は約五日を要する。新しい自動化装置の考案などで年内には三日に縮める計画だ。デジカメ用を中心に現在月に約二百万個の非球面レンズの生産量は、来年度中に同二百五十万個まで伸ばせるという。そのうち七割を外部に販売する計画だ。
工学機器メーカーが先行するイメージが強いレンズ製造事業だが、松下は「製品の競争力を高める有名な部品として伸ばしていく」(山川工場長)と意気込んでいる。(三河正久)

2003,1,29
日経産業新聞

デジカメ用レンズを増産

2003年度 欧米の需要増に対応
松下電器産業は非球面レンズを、現在の月産200万個から2003年度中に同250万個に25%増強する。欧米などでデジタルカメラの販売数が急増、販売先のカメラメーカーからの引き合いも強いため増産する、外販比率は今年内に70%に高め、レンズを部品事業の中核と位置付ける。
増産するのはデジタルカメラやデジタルビデオカメラに使用する高性能なガラス性の非球面レンズ。松下の山形工場(山形県天童市)にガラス硝材の溶融から成形、研磨までを一貫して手掛ける工場設備を増やすほか、計測器を自社開発し、月間250万個の生産体制を早期に築く。設備投資額は明らかにしてない。
レンズに合わせて自社製品に利用するズームレンズ機構の鏡筒部ユニットなどの外販も進める。特にデジタルビデオカメラでは光学プリズムに電荷結合素子(CCD)を三つ搭載し、受像信号の画質を高める部品の製造を強化する。現在役50%の外販比率を年内に70%近くに引き上げるが目標だ。
デジカメは2002年に日米欧の主要市場で高い成長を記録、世界出荷は前年比66%増の2455万台に拡大した。高倍率ズームレンズを搭載した機種が増加し、使用レンズの枚数が増えたほか、カメラ付き携帯電話などでも需要が増え、品薄になっている。

2003,1,27
日経産業新聞

銀塩フィルムカメラ

銀塩フィルムカメラの退潮が著しい。カメラ映像機器工業会(CIPA)がまとめた二〇〇二年一月〜十二月期の世界出荷実績は前年比一四%減の二千三百六十六万台。デジタルカメラの二千四百五十五万台に初めて抜かれた。国内は同二六%減と、より落ち込みが厳しい。今年も引き続き大幅な減少が予想され、各社はカメラ事業の再構造築を迫られそうだ。
最も減少幅が大きいのがコンパクトカメラで、二〇〇二年の世界出荷は二千二四百〇十万台で前年比一五%減となった。小型デジカメとの競合が最も激しいためだ。デジカメは撮像部の電荷結合素子(CCD)が百万画素クラスでも写真プリント並みの画質になるなど性能が向上している一方で、低価格化も進行。東京・池袋にあるビックカメラ専門館では「海外から来た客の七割近くはデジカメの購入目的で来店する」(同館の浜田智治主任)。世界的にデジカメへの移行が急ピッチで進む。
デジカメ普及で先行した日本はさらに落ち込みが顕著で、昨年の国内のコンパクトカメラ出荷は同二五%減の百八十二万台に。
さらに一眼レフも同二七%減の四十一万台と大幅減となった。五百万画素のCCDを搭載した一眼レフカメラ風の高級デジカメが急増したあおりを受けた。銀塩の世界の一眼レフ出荷は七%減にとどまったが、高級機が世界で広まれば疑念カメラが一段と先細りになるのは確実だ。
二〇〇二年初頭にCIPAが予想したデジカメの世界出荷台数は千九百五十万台。だが米国で前年比五十五%増、欧米では同二倍に出荷が拡大。アジアなどその他地域でも同二・四倍の二百九十二万台もの出荷台数を記録した。
ソニー、キャノン、オリンパス光学工業、富士写真フィルムのデジカメ四強は、今年もそれぞれ十機種前後のデジカメ新製品を発売する見通し。多様な商品が登場するにつれ、「デジカメシフトはますます強まる」(CIPA幹部)。
予測では二〇〇三年のデジカメ世界出荷は前年比二八%増の三千百四十五万台と、初の三千万台乗せが確実。一方の銀塩カメラは前年比一五%減の二千十七万台の予想だが、「二千万台割れもあり得る」と大手カメラメーカー首脳は懸念する。
ミノルタとの経営統合を決めたコニカ。自社ブランドのカメラ生産からは事実上撤退するが、その一方で、「フィルムを作っている以上、銀塩カメラから完全に撤退はできない」と岩居文雄コニカ社長む。
デジカメ市場シェアが低いカメラメーカーは、銀塩カメラで不振が続けば収益力の交代は避けられない状況。低落傾向の止まらない銀塩カメラを続けるか、見切りを付けるか。カメラ各社にとっては今年の大きなテーマになる。(三河正久)


(完)
 −文中、敬称略